市立釧路図書館のブログ

北海道釧路市幣舞町4-6にある市立釧路図書館のブログです。ウェブサイトはhttps://lib.city.kushiro.hokkaido.jp/からご覧いただけます。

「姉妹都市ゆかりの3人の作家紹介」特集 第2回

今月のブログ連載は、「姉妹都市ゆかりの3人の作家紹介」と題して、釧路市と姉妹都市提携を
結んでいる秋田県湯沢市鳥取県鳥取市と、釧路市のゆかりの作家を紹介します。
ゆかりの作家は、秋田県湯沢市は「小野小町」、鳥取県鳥取市は「尾崎放哉」、釧路市は「石川
啄木」です。
第2回目の今回は鳥取県鳥取市の「尾崎放哉」をご紹介します。

鳥取市は、明治に旧鳥取士族が現在の釧路市鳥取地区に移住し開拓をするなど、歴史的に極めて
結びつきが深いことから、昭和38年に姉妹都市を提携しました。その後様々な形で交流がなされ
てきています。】


尾崎 放哉(おざき ほうさい)[1885年(明治18)―1926年(大正15)] 俳人。本名・尾崎秀雄。

尾崎放哉は、1885年(明治18)に鳥取県邑美(おうみ)郡吉方町(現在の鳥取市吉方町)に、鳥取県
士族で鳥取地方裁判所の書記官・尾崎信三、母・なかの次男として生まれました。
中学校時代、14歳の頃から俳句を作り始め、学友会雑誌に俳句を寄せ、学友と単行本を発行する
などします。第一高等学校の頃には一級上に生涯親交を結ぶ荻原藤吉(井泉水)がおり、その俳句会
に参加。19歳の時には夏目漱石に英語を1年間習いました。1905年(明治38)20歳、第一高等学校
をを卒業、東京帝国大学法学部に入学します。
学生時代は、『ホトトギス』『国民俳壇』に入選、『日本新聞』や『国民新聞』の俳句欄に投稿も
しました。1909年(明治42)24歳で大学を卒業。1911年(明治44)26歳の時に、東洋生命保険株式
会社に入社します。また、遠縁の坂根寿(さかねとし)の次女・馨と結婚して上京し小石川で新婚生
活を始めます。
その後、荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)が創刊した『層雲』に俳句が掲載。層雲社例会などの
句会に参加し、俳句作りに精を出すようになります。

1921年(大正10)36歳、東洋生命保険を退職し、帰省した後連日のように鳥取温泉へ通い、料亭に
入り浸ってお酒に溺れます。再起を誓って仕事で渡った朝鮮で、左湿性肋膜炎を発病し、これ以降、
生涯病に苛まれることになります。その後もお酒によって罷免され、満州では病気が悪化し入院。
馨とも別居して無一文に。京都や福井の寺を転々としますが、この頃から自由律俳句に磨きがかか
ります。
1925年(大正14)40歳の時に小豆島の西光寺奥の院・南郷庵(みなんごあん)の庵主となりますが、咽頭結核
が進行し、翌年4月、南郷庵裏の漁師の老妻・南堀シゲに看取られながら、孤独の内に41歳で生涯
を終えました。馨は死を見届けるにはわずかに間に合いませんでした。

放哉は、入庵後のわずか8か月で、病苦に苛まれながらも3000句に近い俳句を作りました。そして、
没後の1926年(大正15)、放哉の726句が収められた唯一の句集『大空(たいくう)』が、荻原井泉水
によって編まれました。

帝大、会社の重役とエリートの道を歩みながらも、孤独の内に生涯を閉じた放哉の放浪人生を決定づ
けたのは、病でした。しかし、そのような状況であったからこそなのか、その句は輝きを増したのです。

ねそべって書いて居る手紙を鶏に覗かれる
井戸の暗さにわが顔を見出す
鳩がなくま昼の屋根が重たい
淋しいぞ一人五本のゆびを開いて見る
昼は草ひきつつよんで居る本は「夢の破片」